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User:HelloAnnyong/Translated/Shinichiro Kurimoto

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Shin'ichirō Kurimoto (栗本 慎一郎, Kurimoto Shin'ichirō) (November 23, 1941–) is a Japanese economic anthropology researcher, sociology of law researcher, and a critic. He is also a professor at the Tokyo University of Agriculture Faculty of International Agiruculture and Food Studies, and a lecturer at Takushoku University and Teikyo University. He served two terms in the House of Representatives of Japan, the lower house in the Diet of Japan. He was formerly the parliamentary vice-minister of the Economic Planning Agency. Kurimoto is also the board chairman of the University Research Institute (有限会社大学総合研究所). His father was Kazuo Kurimoto, the former Supreme Court judge.

Biography

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Kurimoto was born in Tokyo. He attended the school of economics at Keio University, and graduated in 1965. In 1971 he completed his doctorate of economics at the same school. Kurimoto then became a lecturer at Tenri University, and was a guest lecturer at Northwestern University from 1975-76. He was an assistant professor at Nara Prefectual University, and then changed to being an assistant professor at Meiji University, but then later became a full professor. During this time he taught Yutaka Ōkawa, a tarento, and former baseball player Katsuo Hirata. After a period of time, he was hired as a professor and director at Akita International University (formerly Minnesota State University - Akita).

Personality

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Kurimoto made his debut writing in the March 1977 issue of Gendai Shisō (現代思想, lit. Modern Thought), and after that, strived to be part of the leading edge in the New Academism boom in the 1980s. After the term shinjinrui (新人類) (referring to the newer generations) was coined, in order to increase the use of his criticism skills, Kurimoto appeared on several television shows and elsewhere in the media. He also wrote and cowrote many books.

He has done a wide variety of activities. After receiving a sudden call from Peter Drucker, he began writing "Budapest Story." He also helped release a collection of workmen's songs which was produced by Tetsuro Oda.

In October 1999, he suffered a stroke. He woke up in the morning and could not move the left side of his body, and after feeling unwell during his morning walk, he took a taxi to the hospital. He was also unable to tell the driver where he wanted to go. His rehabilitation did not go well, but after a strange incident where his wife helped him using a mirror, he started to improve. Two months after the stroke, he had recovered.

Theory and ideology

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Kurimoto's main teacher was Shōhei Takamura (高村象平). While Kurimoto was studying economic history, he found himself in economic anthropology, though he just barely made it through the classes.[1] Eventually he studied under George Dalton.

栗本は、経済人類学の研究成果を踏まえ、近代以前の社会を非市場社会であるとした上で、非市場社会における財の生産、贈与、交換、廃棄等の経済活動の根底には、習俗によって規定されている人々の行為に、当人たちには意識されてない行為の動因があり、経済活動はその結果ないし機能にすぎないとする。その上で、近代社会である市場社会においても上掲の事情は基本的には変わりがないとして、経済活動を人々の合理的な利益追求であるとする従来の経済学の常識に180度の転回を迫った[2]

栗本は、その研究対象を広義の経済学の枠を超えて法社会学に広げて、社会規範として人々に行為を強制・禁止する習俗についての研究を進める一方[3]、その他方で人々の行為・行動の動因となっているものを明らかにするためには、無意識の問題を避けることはできないとして精神分析学記号論ないし生命論等の議論をも踏まえた上で、経済人類学を基礎として、経済学、法学文化人類学を包括した統一的理論の構築を目指した[4]

その後、デュルケームの聖俗理論を紹介した上で、動物行動学の研究成果を踏まえ、これをジョルジュ・バタイユのタブーとエロティシズムに関する見解と結びつけ、日常的時空間における生産的な経済活動は、逆説的であるが、非日常的時空間における破壊的な(経済)活動の準備としてなされる、極めて不合理なものであり、その背後にタブーを犯すことによって生じる快感と、それを支える生命的なエネルギーがあり、しかもそれが経済活動のみならず、人間の道徳、習俗、意識さえも規制しているという「過剰-蕩尽理論」を主張した[5]

栗本は、上掲のとおり学問の枠を超えた過激な見解を主張していたが、それでも当時はトーマス・クーンの見解をあげた上で、個別の学者・学説への批判を慎重に避けていた[6]。ところが、突如、浅田彰山口昌男ら個別の学者を名指しして批判を始め、「危険な学者」と自称するようになる[7]。このように態度を一転させた理由は、学者がマスコミ進出によって、大学教授という地位だけでなく、わずかばかりの知名度や収入を得てそれを守るために汲々とし、お互いに学問的な批判や議論を避けているとの不満と、山口や柄谷行人蓮實重彦らは、その方向性を突き詰めれば社会システムを包括的にとらえる超統一的理論へと至るステップを準備するはずなのであるが、その作業をしていないかあるいはしていても極めて不徹底であることへの苛立ちにあったといえる[8]

その後、自身の理論を更に徹底させて上掲のいわゆる社会科学にとどまらず、すべての学問を包括的にとらえる超々統一的理論の構築を目指して、マイケル・ポランニーの科学哲学である暗黙知の理論を承継・発展させて、化学物理学の研究を進めて、量子論宇宙論の研究の成果を取り込んだ後掲『意味と生命-暗黙知理論から生命の量子論へ』を上梓した。

さらにその後、ドーパミン等の脳内伝達物質にいち早く注目し、コンドラチェフの波等の景気循環に関する経済学説を紹介した上で、その原因が太陽からの磁気が関係していると主張するなど多くの著作を発表している[9]

Society change and personal body change

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政界進出するまでの栗本の思想を一言でまとめるなら「社会の変化と身体の変化」ということになるだろう。カール・ポランニーは、互酬・再分配・市場交換の三つのトランザクション(交換様式)のうち、市場交換が肥大した社会を「市場社会」、それ以前を「非市場社会」と呼んだが、後者から前者への変化は、ヒトの生物進化である、というのが栗本の自説だ。もちろん、進化(=身体の変化)といっても、指の本数などの身体の外形の変化ではない。中村雄二郎の言うような「共通感覚」(センスス・コムニス=コモン・センス)、吉本隆明の言う「共同幻想」、柄谷行人が『日本近代文学の起源』で言った「認識論的布置」のような、あるいはパラダイムエピステーメーなどとも言われる、「身体を装置とした社会感覚」の変化が「ヒトの生物進化=社会の大転換」であると見るのが栗本理論の特質である。

非市場社会(=プレモダン)から市場社会(=モダン)への変化があったのと同様、市場社会からポスト市場社会(=ポストモダン)への変化が予想され、それは、生物学的にはレトロウィルスによる遺伝子書き換えやレセプターの増加、脳内麻薬過剰分泌などによって裏付けられる。『大転換の予兆』では、元米国労働長官ロバート・B・ライシュの「シンボリック・アナリスト」なる概念や、それまでさほど高く評価してこなかったドラッカーやトフラーなどの米国フューチャリストの提起した未来像に注目しているが、そこに栗本は「新しい社会=身体感覚」を見ているのである。

Social activity

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After the "new academy boom", Kurimoto began appearing in the media and on shows such as Iron Chef. In 1991 there was an incident at Meiji University where students were taking tests for others, and after he protested students' laziness, he suddenly resigned from the school. He then joined Horipro, a Japanese talent agency.

In July 1993, he joined his Keio University classmate Ichirō Ozawa in helping to form the Japan Renewal Party. He served as the executive secretary of the organization, and also ran as an independent. He won, joined the Japan Renewal Party and became the deputy vice prime minster under Tsutomu Hata.

However, on June 29, 1994, he supported Toshiki Kaifu in an election for prime minister. Kaifu lost, and when he created the New Frontier Party, Kurimoto was not invited. In turn, after separating from Ozawa, he referred to him as tada no baka (ただの馬鹿) (lit. ordinary idiot). He later joined the Liberal League, and afterward the Liberal Democratic Party and Seiwa-kai, a clique within. 世田谷には清和会現職越智通雄が居た為、国会議員を引退した清和会副会長経験者石原慎太郎の品川や大田の地盤を継承。1996年10月の総選挙にも、自民党現職として東京3区及び比例東京ブロックから重複立候補し、新進党新人の松原仁新党さきがけ現職の宇佐美登などを破り再選される(松原VS宇佐美は史上初の松下政経塾出身者同士の公選での激突、両候補は重複せず、松原が次点)。

1997年9月橋本龍太郎から経済企画政務次官任命され1998年ポスト橋本の自民党総裁選では小泉推薦人。1999年4月の東京都知事選挙では非自民だった舛添要一候補の選対本部長をつとめ清和会を離脱したが野末陳平と共闘した事に抗議し離反し石原支持。通信傍受法(盗聴法)に田中真紀子とともに採決の際に反対し、単独で離党届をだす。田中真紀子はそのまま自民党に残ったが、栗本の離党届は受理されず除名処分となる(その時点の自民党幹事長は清和会会長森喜朗)。宮崎学率いる電脳突破党に参加する。同年の10月29日に脳梗塞で倒れた。脳梗塞で倒れる前日の記者会見ではろれつが回らなかったり症状が出ていたという。左半身麻痺という後遺症が発症したが、自ら考案したリハビリ(右半身を鏡で見せて左半身を鏡で隠すといった方法)ののち、左半身麻痺が解消し復帰している。

2000年6月の総選挙では、通信傍受法成立時の郵政大臣だった八代英太と同じ選挙区(東京12区)から自由連合公認・突破党推薦で重複立候補するが、有効投票総数の1割未満で供託金没収、最下位落選し、政界からも去った。近年は、大学の教壇に立つかたわらで、自身が経験した脳梗塞に関する仕事も精力的に行っている。著書『かくして日は昇る』では北海道自治についても大きな関心を示した。引退後週刊現代でかつての盟友・小泉に対し「頭も悪いが性格も悪い。」等と痛烈な人格批判を行い物議を醸したが、小泉サイドからの抗議などはなかった。

References

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  1. ^ 上掲『講座西洋経済史5巻』257頁
  2. ^ 上掲『経済人類学』3〜16頁
  3. ^ 上掲『法・社会・習俗』、『法社会学研究』
  4. ^ 上掲『経済人類学』3〜16頁
  5. ^ 上掲『パンツをはいたサル』。詳細は『現代思想1982年2月号特集バタイユ』
  6. ^ 上掲『法・社会・習俗』42、43頁
  7. ^ 上掲『鉄の処女』
  8. ^ 上掲『鉄の処女』および上掲『現代思想批判/言語という神』
  9. ^ 上掲『大転換の予兆』56頁
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